志度桐下駄の歴史
志度の桐下駄は明治40年 砂山房太郎により始まりました。
房太郎は東讃の丹生村(現在の東かがわ市松崎)の農家の次男として明治22年に生まれました。高松の下駄屋に奉公し、製造技術を習得し、後に志度に移り住んで創業しました。「日本一の下駄を作ろう」下駄といっても色々な木材で作られています。
大分県日田市では杉、桧材 広島県福山市では泥柳、長野県朝日村のねずこ等、その中でも桐下駄は高級品として、珍重されていました。更に桐材にもこだわり最高級品と言われる新潟の越後桐そして福島の会津桐、岩手の南部桐を現地から仕入れました。大正、昭和の初め頃はほとんどの人達は学校を卒業すれば関西方面に丁稚奉公に行く時代でした。房太郎は若者達が都会へ流出していかなくても地元に産業を起こせば良いと考え多くの職人を育てました。昭和の初めまでは職入の手により最初から最後まで手仕事で一足一足仕上げていました。房太郎は昭和5年に電動機2台、挽機3台、削り機2台を導入しました。機械を導入して荒仕上をした事により生産性が向上しコストも安くなり売上げが伸びて行きました。大量に生産数が出来る様になり大量消費地である京阪神の問屋に売込みをかけ、苦労の末、見事に売り先を確保する事ができました。
房太郎の弟子達は優秀でお互い切瑳琢磨し次々と独立して行きました。香川木履(有)江口頼一、志度木工(有)江崎貞義、山西商店山西為一、常盤商店常盤正一、小倉商店小倉正夫、天野商店天野幸太郎、天野春吉、天野正八、他にも隣の牟礼町にも㈱讃岐木工下駄工業所が出来、吉井秋芳をはじめ吉井一族が参入してきました。こうして志度は桐下駄の一大産地になりました。
山西商店の為一は明治33年高松市亀岡町で生まれ下駄屋に奉公し一人前になると京都、大阪と、渡りの職人となり色々な所で色々な下駄作りを修得しました。大正10年に鶴羽(現在のさぬき市津田町鶴羽)に移り住んで創業しました。その後昭和10年頃に志度に移り住んで房太郎に弟子入りし出来高制の職人として独立しました。しかし、第二次世界大戦も終盤を迎えると統制経済になり下駄作りをしている所ではなくなりました。房太郎は志度飛行機工業株式会社を設立し弟子や同業者を集めて飛行機の部品を作り凌ぎました。終戦後、先代の父、弘が戦地から帰国したのを機に山西商店として正式に独立しました。
その後独立した同業者と共に志度桐下駄製造組合を設立し、共同で材料仕入をし共同出荷をして品質、価格、を統一し需要と供給のバランスをとることにより、他の産地より生き長らえられる基礎を築く事が出来たのです。また昭和29年より志度町の授産施設として下駄の磨き加工所が出来、年間加工高28万足委託加工賃145万円、就業人数40名、ただし昭和44年にこの施設は閉鎖されました。昭和23年頃から43年までは神武、岩戸、いざなぎ景気が続き業界は潤いました。この頃は全国木製はきもの業組合連合会に加盟し、日本一の桐下駄生産高を誇っていました。昭和44年春からは2代目が主力となり不況を打開するため京阪神の問屋相手の商売では売上高を確保する事が厳しくなり、静岡、九州、奄美大島、沖縄と得意先を次々と開拓して行きました。しかし、昭和48年のオイルショック後、下駄の離れが進み業者数は30業者から一気に7業者まで減り、平成の初め頃には僅か2業者となってしまいました。そんな中、山西商店は昭和の終わりとともに初代為一が亡くなり、先代弘が、廃業業者の得意先を紹介してもらい急場を凌ぎ平成6年には法入化し平成9年には三代目就治へと伝統産業を繋いで来ました。その間に香川県伝統的工芸品に指定され、先代弘、三代目就治は長年の功績を認められ県指定の伝統工芸士の称号を与えられました。今は東北、中部、関東、近畿、関西、四国、九州、とほぼ全国の問屋、小売店、呉服屋等、と取引しております。
明治時代から受け継がれてきた日本一の桐下駄作りを今も変わらず伝承し続ける事が、日本の伝統文化を守る事に繋がると信じてこれからも精進して参ります。